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・あとがきにかえて-築地俊造小論(抄) by 梁川英俊
  (「唄者 築地俊造自伝―楽しき哉、島唄人生―」(南方新社)から)

 奄美島唄に関心を持ち始めた頃、遠くから見ていた築地俊造さんは、なんだか不思議でよく分からない人だった。
 民謡日本一という最高の栄誉を手にしながら、「日本一にはなれても島一番にはなれない」と自虐的なギャグを飛ばし、いきなりロックバンドを従えて舞台に現れたりする。正統派の唄者という趣のある師匠の坪山豊さんに対し、築地さんには何をしでかすか分からないイタズラ小僧のような雰囲気がある。ステージでのトークは「オモロイおっさん」風だが、毎年の「奄美民謡大賞」では、厳格な審査委員長として的確な講評で会場の島唄ファンを唸らせる。
 要するに、真面目なのか不真面目なのか、よく分からなかったのである。
 島唄の世界をもう少し近くで見るようになって、おぼろげだったその輪郭がだんだんはっきりしてきた。築地さんには不真面目なところなど微塵もない。特にその島唄に対する姿勢は、真面目そのものである。築地さんの一見イタズラ小僧風な振る舞いは、島唄の世界における自分の役割への明噺な自覚から生まれたものなのである。
 もちろんこんなことは、この自伝を読んでくださった皆さんなら、先刻ご承知だと思う。
 外から見れば活況を呈しているように思える奄美島唄の世界だが、ベテラン唄者の数はけっして多くはない。なにしろ現在の奄美大島の人口がほぼ6万人である。その中核的な唄者といえば、当然数えるほどしかいない。それだけ一人ひとりの唄者の存在は重くなるが、築地さんはその中で、つねに全体を僻撤しながら、自分の立ち位置をしっかりと把握している稀有な唄者であると思う。
 島には唄に対する独特の評価基準がある。「ナツカシイ」がそれである。シマンチュが言う「ナツカシサ」の微妙なニュアンスは、なかなか島外の人間には分からない。いや、もしかするとシマンチュ自身もよく分かっていないのかもしれない。けれども島ではごく普通に、唄を聴いて「ナツカシイ」、「ナツカシクナイ」と言う。それは、たぶんそれ以外に言いようがないほど感覚的なものなのだ。ただ、はっきり言えるのは、この「ナツカシサ」が唄の巧拙とはあまり関係がないということである。
 築地さんもシマンチュとして、ナツカシイ唄のよさは知りすぎるほど知っている。しかしその一方で、それが島外に出たときに受けるであろう評価についても、きわめて客観的に分析している。
 「日本一にはなれても島一番にはなれない」という築地さんの自己認識は、だから自虐などではさらさらなく、築地さんが意識的に選択した一個の方法論なのである。なぜなら、それは裏を返せば、「島一番では日本一にはなれない」というクールな現状認識でもあるからだ。それにしても、なんてウィットの利いた、チャーミングな方法論だろう。
 ナツカシイ唄はいい。しかし、コンクールという他地域の民謡との比較にさらされる対外試合の場では、それだけでは勝てない。
 いつからかは分からないが、築地さんはたぶん自分を奄美島唄における改革者として位置づけた。よく誤解されるが、改革者とは伝統を壊す人の云いではない。逆に、それは伝統の最もラディカルな継承者であろうとする人のことなのである。
 築地さんが1975年に「奄美新人民謡大会」で優勝したとき、審査委員長は「新人賞にふさわしい新しいタイプの唄者」と評した。本書にも名前が出る四本忠典氏は、築地さんの「マンコイ節」を、「従来奄美でうたわれていた節回しではなく、自ら編曲したものが、他地方の人々にアピールし、蛇皮線の弾き歌いと歌の巧さが相俟って栄冠をかちとった面がある――と言えば氏には失礼にあたるであろうか」と書いた。
 築地さんの登場は、それほど斬新な印象を聴き手に与えたのである。しかし本書にもあるように、奄美ではそれを好意的に受け取る人ばかりではなかった。特に昔ながらの島唄に慣れた耳には、その唄は奇異なものに聞こえた。
 洋の東西を問わず、伝統的な世界が新しくなるとき、必ず旧来の慣習を打ち破るような人が出現する。そして、みんなが「何だろう?」と思っているうちに、少しずつその世界を変えて、新しい時代に適応させる。こうして最初は奇妙に思えたものが、そのうち日常になり、やがて新たな伝統になる。長続きしている伝統は、必ずこの種のイノベーションの連鎖を経験している。島唄の世界でその推進役となったのが築地さんだったのだろう。
 繰り返すが、改革者とは誰よりも真剣に伝統を継承する人である。築地さんも島唄を後世に伝えるために必要な努力を惜しまない。若手唄者を歌遊びの席に誘い、「あらしゃげ会」を立ち上げて八月踊りの継承に力を入れる。その一方で、民謡大会の審査員長として、後進の唄者たちに公平かつ適切なアドバイスを送る。
 民謡日本一を二度受賞した唄者の中村瑞希さんが、「あんなに島唄のことをぜんぶ考えてくれている人はいないですよ」と言っていたが、まさにその通りだと思う。そしてそんな築地さんの存在が、奄美島唄の世界をどれだけ支えてきたかは、本当に計り知れない。
 その築地さんが唄だけではなく、「語り」の名手でもあることはよく知られている。ステージでの闊達なトークは、ときに島独特のとぼけたユーモアの味も加わって楽しい。奄美にはもともと話上手な人が多く、集落のお祭りなどに行くと司会者の巧みな話術に驚かされることがあるが、築地さんはあきらかにこの島の「語り」の良き伝統を受け継いでいる。

tsukiji 201910 (唄う築地俊造)



・南への衝動、北への衝動  by 谷川健一
  (「谷川健一全集7 沖縄三」(冨山房インターナショナル)から)

 私が沖縄通いをはじめたころ、私は奄美に立ち寄って島尾敏雄によく会った。後年、私との対談のとき島尾は「あのころは毎年渡り鳥のようにやって来ましたね」と言った。たしかに私は冬のころ沖縄通いをすることがつづいた。それはまるで本土の寒さを避ける渡り鳥のように見えたのかも知れなかった。
 北陸の白山の山系に棲むサシバ(ワシタカ科の小形のタカ)は、毎年陰暦10月のはじめころになると、大隅半島の尖端の佐多岬付近を通過し、道の島と呼ばれる奄美の島々ぞいに南下し、宮古、八重山の空が真っ黒く見えるほどの大群をなして、フィリピン諸島方面に向かう。このサシバのような本能が私の身体の奥のどこかで働いているのであろうか。いまもって南の島々への強い衝動のやむときがない。
 本土に近い奄美よりも沖縄の島々に南島の特徴は明確にあらわれている。たとえば沖縄にやってきたことを真っ先に実感するのは、島を取り巻く、珊瑚礁の暗礁に白い波が打ちよせている風景であるが、沖縄でヒシ(干瀬)と呼ばれる暗礁は奄美ではあまり発達していない。島尾は奄美を去ったあとは、沖縄に住むことを欲していたようだ。しかし家族の事情でそれが果たせず、奄美から神奈川県の茅ヶ崎に移り、さらに鹿児島に転住した。島尾が20年近い奄美生活ののち沖縄で過ごすことができたら、本人も満足であったろうし、また彼の文学と人生もいっそう完結した輝きを見せたにちがいないと、私はひそかに残念に思っている。
 その私ですら、一切の条件が許せば沖縄で自分の生を終えたいと思いながら、現実はどうしようもないのだから、島尾を責めるわけにはゆかない。島尾は沖縄本島、それも首里付近が好きだったようだが、私はむしろ先島が好きだ。このような思いは私だけではないらしい。数年まえのことだが、フランス文学者の岡谷公二と話をしたとき、岡谷も繋縛がなければすぐにでも沖縄に行くと言って、私も即座に同感したのであった。先日、拙著「南島文学発生論」を銚子市在住の作家常世田(とこよだ)令子に送ったが、その返礼の手紙に「南島と聞くだに胸が震えてしまう私です」と書いてよこした。
 このような現象を沖縄病とか島恋いと呼んでも差し支えない。しかし島尾、岡谷、常世田の諸氏にせよ、かくいう私にせよ、「若き犬の病」をわずらう年頃ではない。南島の風景がどのように美しくとも、島の人情がどれだけふかくとも、それに溺れてしまうにはあまりにも多くのことを体験しすぎている。この世に絵で措いたような楽園のあるはずもないことは充分知っている。それにもかかわらず、胸の奥底から突きあげる「南への衝動」とはいったい何か。何が私たちを突き動かすのか。
 それは柳田国男や折口信夫の研究を通してうかがうことができるように、日本列島に国家の萌芽もなかった時代の民族の記憶が、南島に触れて蘇ってくるからではないだろうか。日本の権力社会の中心からもっとも遠く離れた南の島の渚に立つとき、日常の垢に蔽われた自己がまるで借り物の衣裳のように脱ぎ捨てられ、真性の民族的自己が現れるのを自覚するからではないだろうか。南島では、生まれかわりまたは脱皮をスデルと呼んでいる。少なくとも私が南島で体験するのはこのスデルという感覚であるといってよい。
 だが、このような体験は南島においてだけ味わうものではない。白河関を越えて東北に足を踏み入れたとき、そこに展開する風土と自然の営みに、どこか北方大陸とつながっているようなふしぎな感情を味わう。シベリアから飛来する白鳥は秋の彼岸ごろには東北の大地を訪れ、また春の彼岸ごろには北へ帰っていく。
 かつて白鳥を神として信仰し、命をかけて白鳥を守った人びとが東北にいた。そして同様の熱烈な白鳥信仰がシベリア、バイカル湖畔のブリヤート族と呼ばれる少数民族にも存在することを知ったとき、私は奇異の感に捉われたことを告白する。おそらく北方大陸の狩猟文化の波はわが縄文時代にも押し寄せていたにちがいない。その末端が東北地方であったのではあるまいか。
 これまで日本人の北への感覚は、鎖国時代はもちろんのこと、明治、大正、昭和の三代にも一度も開かれたことがなかった。国家の政策が日本国民に北方への感覚を閉ざし、したがって、「北への衝動」は封じられたままであった。もし彼我の交流が自由になったら、いままで抑圧されていた北への衝動が奔出することはまちがいない。かくして、私たちは国境という人為の画定線を超えた民族感覚の全方位にわたる開放を体験することが可能になろう。
 南への衝動も北への衝動も、日本人の意識のもっとも奥深い底によこたわる民族感覚の、渡り鳥のように正確な本能の働きかも知れないのである。

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・シマウタの呪力  by 谷川健一
  (「谷川健一全集7 沖縄三」(冨山房インターナショナル)から)

 平成2年(1990)、日本武道館でおこなわれた日本テレビ主催の日本民謡大会で、奄美大島の古仁屋(瀬戸内町)に住む高校一年生の15歳の少女が「むちゃ加那節」という奄美のシマウタをうたって、みごと日本民謡大賞を獲得した。その光景を私は偶然テレビで見ていたのだが、審査委員の三隅治雄も小島美子もその少女に点を入れていた。
 ところで、前年の日本民謡大賞の受賞者も奄美大島の笠利町に住む女性であった。2年つづけて民謡日本一が奄美から出たことに、私は奄美のシマウタのもつ強烈なパワーを感じたのである。他府県の民謡のほとんどがお座敷歌になり下がり、芸謡化しているのに(沖縄本島の民謡もその弊を免がれていない)、奄美の民謡であるシマウタだけが、飼い馴らされない野性のひびきをもっていることに、日本武道館を埋めた会衆も審査員も、私と同様に感じ入ったと思われる。
 南島とひと口にいうが、沖縄と奄美とではその風土からしてちがう。沖縄の島々は総じて平坦であるが、奄美は山がふかく谷がふかい。奄美空港から名瀬市にむかう旅人はこの実感を否応なしに味わう。海に迫った山すそにわずかな平地がひらかれ、村落が営まれている。南島では村落をシマと呼び、村々でうたわれる民謡がシマウタである。最近はシマウタに島唄の漢字を宛てている場合が多いが、シマウタは村々のウタであって、島のウタではない。島唄という表記は誤解されやすいからやめたほうがいいと思う。
 シマウタの起源は明らかではないが、歌のかけ合い、つまり一種の歌問答、歌合戦であるから、遠く古代の歌垣にまでつながるかも知れない。沖縄のモーアシユビ(毛遊び)も若い男女の歌掛けであるが、浜辺や野原で三味線をひき、歌をうたって遊ぶ。そこにはおのずから外気のなかの開放感がある。それに反して、奄美のシマウタは屋内でうたう。古老の話では、昔はシマウタ遊びは昼間やるものではなかった。夜どおしやって、夜が明けはじめても戸を閉め切って、ほの暗いランプをつけ、しまいには泣きながらうたっていたという。この一事からしても、閉め切った空間での濃密な雰囲気がうかがわれる。
 奄美はもともと言葉の呪力をつよく信じている世界である。相手を害する呪言をクチと呼び、クチを入れるといえば、呪言を吹きこむことである。昔々の話であるが、奄美大島の龍郷町の秋名とか住用村に行ったときは、出された茶を飲むな、その茶にはクチを入れられているかも知れないから、とよく言われたものだという。クチを入れたということがわかったお茶の毒を消すには、お茶のなかに自分の人さし指を入れるとよい、ともいう。クチはノロクチともいう。ノロは呪うという言葉と関係がある。
 奄美のシマウタも、もともとはこうしたウタの呪力をもって相手を言いまかし、圧服する手段であり、呪祖をこめた歌のたたかいであった。その緊張感は奄美のシマウタにいまも受けつがれている。相手がうたい終わると、息もつかずにそれを引き取って、相手に歌で返す。そのやりとりが延々と幾時間もつづく。
 私はあるときシマウタを聞いてから病みつきになり、昭和59年(1984)の暮れ以来、毎年のように奄美に出かけてはシマウタを聞くのを楽しみにしていた。たいてい詩人の藤井令一宅でウタシャ(歌い手)を呼び、夜の更けるのも知らず甘美な雰囲気にひたった。私がシマウタに耽溺しはじめたころは、島尾敏雄はすでに奄美を去っていた。藤井に島尾はどうだったと聞くと、シマウタは大好きで、奄美方言もうまくこなして、なかなかのうたいぶりであったという。ミホ夫人もうたったが、これはなんとなくオペラ調であったと藤井は評した。シマウタをオペラ調でうたうとどんなふうになるか見当がつかないが、おもしろい図であることはまちがいない。
 シマウタが奄美の風土にしっかりと根を下ろし、いまも素朴さと野性味を失わないでいるのは、昔から現在にいたるまで、どの村にもウタシャがいて、シマウタがうたいつがれているからである。またいろいろな賞をとったすぐれたウタシャでも、シマウタのプロ、すなわちシマウタをうたってそれで生計を立てている人が奄美にはいないということも、その理由の一つである。
 日本民謡大会は平成2年で13回目をかぞえ、そのうち第3回、第12回、第13回と奄美のウタシャは3回も受賞している。第3回目に日本民謡大賞をとった築地俊造は建築業である。第12回目の受賞者の当原は大島紬の織り手である。私がもっともすぐれたウタシャと思っている坪山豊は舟大工である。これらのすぐれたウタシャは結婚式とか新築披露などの祝いの席に呼ばれることが多いが、謝礼といっても別にきまりがあるわけではなく、寸志程度だという。
 奄美のシマウタを語るのに忘れることのできないのは小川学夫(ひさお)である。小川は北海道の出身でありながら、学生時代に奄美のシマウタに魅せられ、奄美に移り住んで23年間もシマウタの研究一筋でやってきた。奄美のウタシャもあらゆる面で小川のお蔭をこうむっている。
 ここで一言しておくが、奄美のシマウタは奄美大島、徳之島、喜界島などで盛んであり、沖永良部島や与論島など沖縄に近い島々は沖縄民謡の圏内にある。これには歴史的背景がともなっていて、沖永良部島や与論島は早くから沖縄の勢力範囲に入っていた。また、奄美を征服した薩摩藩は奄美大島、徳之島、喜界島に砂糖キビを植えさせて苛烈な収奪をほしいままにしたが、沖永良部島や与論島には比較的寛大で米作りを許した。
 奄美のシマウタは、沖縄の民謡ののびやかな旋律に馴れた者の耳には、海にむかって削ぎ落とされた孤島の悲鳴のようにひびく。それは、薩摩からも琉球からも見放されて孤絶の生活を強いられてきた風土の切実な叫び声である。シマウタがかん高い裏声を多用し、喉の筋の浮き出るような絶叫型であるのも、幾百年もの間、島民の喉もとを締めつけてきた収奪の手のせいであると思えてしかたがない。しかし、だからこそ、平板でくたびれ切った現代の日本民謡のなかで、奄美のシマウタはひときわ輝いている。