FC2ブログ
 6時45分起床。
 沖縄にいると今日は旧正月であることを意識する。しかしだからと言って、中国のように世の中が普段とは大きく異なるかというと、沖縄であってもそうではないようで、どこかが休みになったりするわけでもなく普通の生活ができるようだ。
 新型コロナウィルス肺炎の関連では、ようやく中国が本格的に動き出したようで、大量の人でごった返すいつもの「春節」は様変わりしているとのニュースが流れている。キャリアになりそうな何億という人の行動、拡散が一定程度封じ込められたことは喜ばしいことだ。

 この日は中部の読谷方面へと赴いて、その後は恩納村にある沖縄科学技術大学院大学内で行われる沖縄芸能を見る予定だ。少し早いが9時過ぎには部屋を出て、高速は使わずにチンタラと進んでいく。

 約1時間で「旧読谷補助飛行場跡」に着く。戦中の1943年に建設が始まった陸軍沖縄北飛行場に由来し、戦後は米軍読谷補助飛行場として使われ、96年に始まった日米両政府の交渉の結果、2006年に全面返還されている。
 ここに来るのは2度目。1度目のときは「艦砲ぬ喰ぇ残さーの歌碑」、チビチリガマ、「さとうきび畑の歌碑」などを見てきたついでに寄ったが、今回はこちらがメインだ。
 今日では、読谷村役場や読谷平和の森球場、読谷中学校、農業用地として跡地利用が進んでいる。役場から文化会館、村の健康増進センターと公共施設の駐車場を東に進んでいくと、パークゴルフ場の先に放置されたような広すぎるスペースがあった。その一部は舗装されているが、これは滑走路として整備されたものを後に道路として使っていたのだろう。今は乗入れする車両は見ないが、前回見たときはここを車が走っていたと記憶している。ここに滑走路があったことが、この先いつまでわかるように残っているだろうか。

1700_20200126101441f86.jpg
(読谷村役場本庁舎)

1705.jpg
(旧読谷補助飛行場跡)

 「艦砲ぬ喰ぇー残さー歌碑」を改めて見に行く。2014年の夏以来2度目だ。読谷村楚辺のユウバンタの浜に2013年6月に建立されたものだ。
 「艦砲ぬ喰ぇー残さー」は、1970年代に4人姉妹の「でいご娘」がうたって大ヒットした、♪いゃーん我んにん 艦砲ぬ喰ぇー残さー…… と歌われる沖縄民謡だ。作詞作曲は「でいご娘」父・比嘉恒敏で、このうたができる背景などについては書籍「「艦砲ぬ喰ぇー残さー」物語 「でいご娘」と父・比嘉恒敏が歩んだ沖縄」(仲松昌次著、ボーダーインク、2015)が詳しい。
 創作太鼓「島太鼓」や「シュビーズ」を主宰するひがけい子は、「でいご娘」の末っ子の四女にあたる。

1710_202001261014448fe.jpg
(艦砲ぬ喰ぇー残さー歌碑)

1715.jpg
(歌碑のあるユウバンタの浜)

1718.jpg
(でいご娘(2019年))

 「座喜味城跡」にも寄ってみる。1420年前後に読谷山(ゆんたんざ)按司の護佐丸(ごさまる)が築城したとされる。ここは3回目だが、先に見た「勝連城跡」と同様、駐車場が整備され、城跡へのアプローチがきれいになっていて、あれ、こんなだったかなと隔世の感がある。アーチ門のある城壁もきれい過ぎるぐらいだ。
 中国人団体客が大声で話し、随所で他の客の進路を妨げながら写真撮影し、城内を席巻中。肺炎のこともあるので、早めに退散する。

1720_2020012610144949c.jpg
(リュウキュウマツの林がいい座喜味城跡への入り口)

1725.jpg
(アーチ門を備える城壁)

 読谷村の瀬名波地区を通過中、「屋良朝苗生誕の地」碑を発見! 屋良朝苗は、我々の世代では誰もが知っている(と思われる)、沖縄の本土復帰(1972年)前後に活躍した沖縄の政治家だ。初の公選主席、復帰後の県知事を務めた人物なのだが、読谷村瀬名波の出身だとは初めて知った。大きな3つの石からなる碑は、2015年10月に建立されたものだった。

1730_20200126101452cde.jpg
(「屋良朝苗生誕の地」碑)

1735.jpg
(屋良朝苗(1902~1997))

関連記事
Secret