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 次は有名な「ひめゆりの塔」へ。いつもなら観光客や修学旅行生などの観光バスが押し寄せている場所だが、この日の駐車場には観光バスはほとんど停まっていず、観光タクシーやレンタカーでやってきている客がチラホラといった程度。こういう神聖な場でチャイナの馬鹿声が聞こえないこと自体がとてもすばらしいことだが、それほどまでに新型コロナの観光業に与える影響は大きくなっていることを肌で感じる。
 「ひめゆりの塔」は、沖縄戦当時このガマにあった第三外科壕に学徒隊として従軍していた沖縄県立第一高等女学校と沖縄師範学校女子部に因むものだ。「ひめゆり」とは、県立第一高女の校誌名「乙姫」と沖縄師範女子部の校誌名「白百合」とを組み合わせた言葉だということはどの程度知られているのだろうか。
 その左側にある「ひめゆり平和祈念資料館」には特に初めての人は必ず寄るべきだと思っているが、すでに2度入っている。いったん入ってしまうとつい資料を読み耽って長くなる上に、感情移入して涙が止まらなくなるので、今回は割愛する。
 なお「ひめゆり学徒隊」については、石野径一郎の小説「ひめゆりの塔」(1949)を契機として映画などによって美談化されてしまった印象が強いが、当時実際に学徒たちを率いて戦場をさまよった教師仲宗根政善は、その風潮に違和を感じ、後に「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」(1974)をものしている。ひめゆりを知りたければまずはこちらのほうから読むべきだと思う。

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(ひめゆりの塔)

 「ひめゆりの塔」ばかりが注目されがちだが、その北東方向わずか150mほどのところに「梯梧の塔」があるので、初めて行ってみる。こちらは当時沖縄県で一番若い私立女学校だった「昭和高等女学校」の生徒の犠牲者を慰霊するものだ。1971年製。那覇市泊の崇元寺橋近くの旧学校敷地跡に建てられたものだが、その後こちらに移設したのだそうだ。

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(梯梧の塔)

 車で数百m東側へと移動して、三叉路付近にある「ずゐせんの塔」にも初めて寄ってみる。こちらは「県立首里高等女学校」の犠牲者を慰霊するもの。その北隣りには宮崎県人の慰霊塔「ひむかいの塔」があった。

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(ずゐせんの塔)

 続いては「大度海岸」へ。ここには「ジョン万次郎の上陸地点」と「用之助港」を見るために一度来たことがあり、そのときはそれら両方とも見つけられずに終わったのだった。
 駐車場周辺は、前回来たときとは季節が異なるためか、妙に静かで寂しげに思える。だが、その東側には「ジョン万次郎上陸之地」碑まで130mとの標識が付いた遊歩道がつくられていた。前に来たときにはこんなのなかったぞ。2017年度に整備したもののようだ。
 したがって今回は苦もなく「ジョン万次郎上陸之地」へとたどり着き、当時からあったのかどうか知らないがジーンズを穿いている、現代風の万次郎の像を見る。これも2018年2月建立の碑だった。

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(「ジョン万次郎上陸之地」へと続く遊歩道ができていた)

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(「ジョン万次郎上陸之地」碑)

 そして、同じ大度海岸にあるはずの「用之助港」。
 明治期、佐賀から沖縄へ警察官として赴任し、その後島尻郡長などを歴任して沖縄本島南部の公共事業や人材育成などに尽力した斎藤用之助という人物がいる。彼の業績の一つが、1904年に島尻郡を襲った大干ばつを受けて新たに港を建設したことで、3年半以上の歳月をかけてサンゴ礁を切り開き完成させた、大度の「用之助港」なのだ。サンゴ礁を切り開く難工事を乗り越えた点が評価され、社団法人土木学会の選奨土木遺産に認定されている。
 今回も見つけられないので帰ろうとしたところ、東屋のそばに港の位置を示す案内表示を見つけ、ああ、あそこなのかとようやく特定できたのだった。東屋から防波堤に沿って数百mほど西方面に行ったところからは、サンゴ礁を掘削してつくった水路をはっきりと望むことができた。防波堤沿いのモンパノキが見事だった。

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(ようやく見つけた「用之助港」の水路)

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(防波堤沿いにはモンパノキが繁茂していた)

 八重瀬町へと移動して、仲座集落内にある「世持井(ユムチガー)」を探しに行く。事前に場所を特定できなかったので、「仲座公民館」の前に駐車して歩いていく。こうやって集落を歩くことこそが後々まで沖縄での経験として血肉になるものだと思いたい。
 見つけるのに時間を要したが、なかなか大きくて立派な湧水池だった。説明版によれば、「世持」とはおもろ語で「世直し」を意味し、従来仲座・与座集落は南側の山上にあったが、生活用水を求めて「世持井」の近くに移動定着したとのことだった。

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(世持井)

 南城市玉城富里の、第一尚氏第6代の「尚泰久王の墓」にも初めて行ってみる。場所が特定できないので周辺を車でウロウロすることになったが、結果、何だここだったのかというようなところにあった。
 阿麻和利と護佐丸の乱があった、時代が大きく動いた当時の王で、治世下では有名な「万国津梁の鐘」がつくられている。しかし死後しばらくして尚円金丸のクーデターによる第二尚氏が成立したことから、首里の天山陵に葬られていたものが政治の中心から遠い読谷山間切の伊良皆に移される。しかし、王の骨だけは美里間切(現沖縄市)伊波村に密かに安置され、1910年頃に屋良腹門中の子孫たちが2日がかりで石棺をこの地に運び移葬したとされている。

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(尚泰久王の墓)

 見たいものはまだいくつかあるのだが、15時半を回ったので、この日はここまでとする。
 16時過ぎにマンション戻り。
 しばらく翌日のイベントでやっているものがないか調べてみるが、29日は中止・延期の嵐が吹いていてほぼ壊滅状態だということがわかった。だったらまあいいや、諦めよう。そうすると明日はヒマな一日になるので、今夜の段階から早々とスローダウンしてしまおう。
 ということで、この日のドキュメントは明日やることにして、18時半頃から飲み始めてぼんやりと過ごす。そろそろ部屋を去る準備を始めなければならないだろうが、それも3月になってからでいいやとすっかりやる気なしの状態だ。

 23時頃には就寝。

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