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 続いて、「安達ヶ原ふるさと村」にも立ち寄ってみる。
 安達ヶ原には鬼婆伝説があり、その地に1993年につくられた、子どもが楽しめる遊び場といった感じの公園。だが、ふるさとの文化や歴史を伝えるテーマパークでもあるようで、福島県北地方で盛んだった養蚕業についての道具等を展示し作業工程を解説している「絹の家」、明治時代初期に建築されたととても大きな2階建ての農家の家屋を使った「農村生活館」、江戸末期の中流武士の邸宅を再現した武家屋敷など、移築した古い家屋があり、それらを自由に見学することができる。また、なぜここにと思われる、ふるさと村のシンボルタワーだという「五重塔」もあった。
 もともと入場料1,000円だったのが2007年から無料化されたそうだが、これだけ広大で、庭園の管理に手がかかりそうな施設が入場無料でやっていけるのか心配になる。民間ではなく二本松市が施設を指定管理者制度で管理していると知り、ナルホドと納得する。

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(「安達ヶ原ふるさと村」の「絹の家」)

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(同 「農村生活館」)

 ふるさと村には鬼婆伝説ゆかりの「観世寺」が隣接しているので、行ってみる。
 安達ヶ原に棲み、人を喰らっていたという「安達ヶ原の鬼婆」の伝説があり、この鬼伝説と結びつくことによって、安達ケ原は文学作品の題材やモチーフとなる場所となったという。
 8世紀、一人の僧が安達ヶ原を旅している途中に日が暮れ、一軒の岩屋に宿を求める。岩屋には一人の老婆が住んでいて、薪が足りないのでこれから取りに行くと言い、奥の部屋を絶対に見てはいけないと僧に言いつけて岩屋から出て行く。僧は好奇心から奥の部屋を覗くと、そこには人間の白骨死体が山のように積み上げられていた。驚愕した僧は、安達ヶ原で旅人の血肉を貪り食うという鬼婆の噂を思い出し、あの老婆こそがくだんの鬼婆だと感付き、岩屋から逃げ出した。そして……という話。
 その岩屋は観世寺の敷地内にあり、拝観料400円を払わなければ一目たりとも見せてあげませんからねと言わんばかりに、石塀の上にさらに別途フェンスを設けて中が見えないようにしている。ふるさと村はタダなのに寺院だけがぼったくりをしているように思えて、中には入らず。ウェブ画像でそれを見れば、次の画像のようなものらしい。
 そこから少し歩き、阿武隈川右岸の高い土手を越えた遊水地には「黒塚」というものがあるというので、そちらのほうにも行ってみる。僧がここに鬼婆を埋めたという場所で、古歌が刻まれた石碑が立っていた。

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(安達ケ原の「鬼婆の岩屋」)

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(安達ケ原の「黒塚」)

 安達ヶ原とは、ここだという明確な場所が特定されていず、どうもはっきりしないのだが、この地については、坂上田村麻呂の蝦夷討伐遠征以降、東山道の陸奥方面においては、刑罰としての流罪の場所としての意味合いがあった可能性があるといい、個人的にはそのあたりが妥当なのかなと思う。
 そこからは「道の駅あだち(下り線)」にも立ち寄ってみる。ここは国道を走る大型トラックの休憩場所としての役割が強いようだ。何も買わずに福島市内へと向かう。

 福島の円盤餃子を賞味したいがどこがいいかと調べ、2か所しか見つけられなかった昼も営業している中心部の店のうちから、JR福島駅東口の1階で営業している「餃子の照井福島駅東口店」を選び、駅西口の有料パーキングに停めて赴く。
 戦災被害が少なく都市機能が残った福島市の闇市で、満州引揚者や復員者が生活のために飲食業を営んで提供したのが始まりという円盤餃子。一度により多くを焼くために、餃子をフライパンに円盤状に並べて焼き、そのまま皿に移して出されるもので、「ふくしま餃子の会」を結成してPR活動をしているそうなのだ。

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(餃子の照井福島駅東口店)

 客が集中する時間を過ぎた頃合いの13時半過ぎに行ってみると、店の前に10人ほどが席の空くのを待っている。せっかくなので用紙に名前を書いて待つことにしたところ、我々の次にもう一人の客が名前を書いた段階で、本日午後分の受付は終了となる。着席は14時を回ったが、なんとか食べられてラッキーだったと思うことにする。
 餃子(22個)1、ごはんセット(ごはん、豚汁、サラダ、漬物)1、豚汁1で、合計2,100円。
 餃子は、表面は揚げ餃子のようなパリッとした食感の仕上がりで、ニンニクがほどよく効いていておいしい。個数は多いけれども小ぶりなので、2人で食べればちょうどいい程度だ。豚汁は驚くほどに具だくさんだし、サラダもたっぷりかつフレッシュ。これはいい食事になるぞ。
 朝メシが効いてまだ空腹になるには至っていないので、ごはんとサラダは2人で分けて食べて今回は十分だった。腹に余裕があるのであれば、鉄板で供されるソース味の野菜いためやボリューミーなポテトサラダもおいしそうだった。

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(「餃子の照井福島駅東口店」の円盤餃子)

 最後は、「道の駅ふくしま」でお買い物。フルーツ王国福島のいちご、とても安い産直のトマト、今回食べられなかった袋入りのなみえ焼きそば、福島の有名店の4食入りラーメン、パンに塗るだけの瓶詰めクリームボックスを買い、これらを手出し300円程度の金額で残りを観光特典クーポンで支払い、いい買い物とご満悦。

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(道の駅ふくしま)

 あとは山形までまっすぐドライブ。ああ食った、寛いだ、ゆっくりした、楽しかった、儲けた、得したなどと笑って話しながら、17時半に帰宅と相成った。
 リタイア後とはいいものだ。このような安楽さを今後もたっぷり楽しみたいと思っている。

 翌3月8日(水)。
 前夜からたっぷり眠って6時に起きる。窓外には朝のさわやかな鏡ヶ池。天候も味方をしてくれて、上々の快晴である上に、今日の福島地方は5月下旬並みの暖かさになるという。

 7時半から朝食バイキングへと向かい、おいしそうなものが多いのでまたもやガッツリと食べてしまう。6種の盛り付けができるバイキング皿のほか、ごはんにのっけて食べるような小皿類としじみの味噌汁。いいですなあ。サラダやドリンクも摂取して、朝からいい腹心地となる。
 でもって、ひと心地してからは、贅沢にも朝風呂。夜中の掃除が行き届いたためか昨晩よりも湯の花が少なく、濁り酒がますます清冽になった感じで、温度も少し高い。ここの湯はサイコーだと思う。

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(「碧山亭」の朝食バイキング)

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(「碧山亭」の大浴場)

 チェックアウトが11時なので、それまで部屋でゆっくりできるのがよく、10時半にチェックアウト。
 こんなに寛ぎ、たくさん食べ、4千円の買い物券までもらって2万2千円そこそこの旅割制度って、スゴかったなぁ。

 このまま岳温泉を去るのはもったいないので、ヒマラヤ大通りの中ほどにある「岳温泉ニコニコ広場」に車を停めて歩いてみる。「岳温泉神社」で手を合わせて大通りを歩けば、閉店して空き家になっている旅館は瓦屋根が崩れていたり、建物の柱の鉄筋が見え始めていたりと、荒涼とした風情が漂ってしまっているのが残念だった。

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(岳温泉ニコニコ広場)

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(ヒマラヤ大通り)

 さて、ここからは戻り足。観光特典クーポン「福島県「来て。」割」クーポンが4千円あるので、帰りはあちこち買い物もしていく。
 二本松インター近くにあった郡山資本の菓子店「三万石二本松店」に寄り、郡山名物のクリームボックスと銘菓「ままどおる」をゲットする。

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(三万石二本松店)

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(これが「三万石」のクリームボックスだ)

 次は、せっかくだからこれもぜひ食べなきゃということで、今は震災の影響のため二本松市内で営業中している名店「杉乃家」に、なみえ焼そばを食べに行く。
 「なみえ焼そば」は、福島県双葉郡浪江町で昔から親しまれる極太麺の焼そばで、50年ほど前に、食べ応えと腹持ちのよい、労働者向けの食べ物として考えられたとされるもの。通常の約3倍もある太麺とうまみたっぷり濃厚ソース、豚肉とモヤシだけのシンプルな具が特徴で、一味唐辛子を振りかけて食べるものらしい。
 店の入っている二本松駅前の市民交流センターに行ってみたところ、店前のシャッターに月・火が定休で、明日9日は臨時休業するという貼り紙があった。今日は8日の水曜日。なのになぜか、本日も開いていない。はぁ、残念だな。
 でもまあ、まだ朝食バイキングがまだまったくこなれていない状況でまた昼前に腹に入れることが回避されて、ある意味ホッとしている我々二人ではあった。

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(「なみえ焼そば」とは)

 2023年3月7日(火)。
 かねてからブッキングしていた福島の岳温泉1泊ドライブを実行に移す。
 母の病状も落ち着いていて、このところ病院からの連絡はない。何か起こらないとも限らないため、昨夏以降ずっと好きな旅にも出ず自宅に蟄居していたのだが、ようやく冬も過ぎて、こちらもそろそろ我慢ができなくなったというわけだ。
 1月末のスパリゾート・ハワイアンズ2泊3日の旅に続いて、今回つれあいとともに自宅を空けるのは2日間。その間はなんとか支障なく暮らしていてほしいと願う。幸いにしてむこう2日間は、晴れて気温がぐんと上がるとの予報だ。

 10時になったのをメドに出発。米沢の中華そばの名店「そばの店ひらま」で早めの昼食に米沢ラーメンを食べて、ずっと一般道を走って福島へ。

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(「そばの店ひらま」の中華そば)

 13時頃には二本松に入り、市の中心部に向かってナビの案内どおりに進んでいくと、油井(ゆい)というところで「智恵子の生家」があったので、立ち寄ってみる。
 詩人・彫刻家の高村光太郎の妻で洋画家、紙絵作家の智恵子は、二人の愛を綴った光太郎の詩集「智恵子抄」で有名。その智恵子が生まれ17歳まで過ごしたのが、ここにある酒造業の家だった。
 映画やドラマなどにも取り上げられた「智恵子抄」だが、実はそれを読んだことはなく、二人の詳しい関係もよく知らない。生家の裏庭には当時の酒蔵をイメージした「智恵子記念館」があり、病に侵された智恵子が制作した紙絵や、当時の女性としては珍しい油絵の作品等が展示されているようだったが、興味が湧いてこず、入館はせずに周辺を歩いて眺めるにとどめる。
 帰宅してから調べてみると、日本女子大に進んだ智恵子は、卒業後も東京に留まって絵画を学び、雑誌「青鞜」の表紙絵を描くなどして、若き女性芸術家として注目されるようになる。文壇で活躍する光太郎と出会い同棲し始めたものの、父の死、実家の破産と一家離散、自身の絵画制作への閉塞感、結婚以前から病弱などが原因で、統合失調症の兆しが表れ、1938年に死去している。

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(「智恵子の生家」は「花霞」の酒蔵だった)

 続いて、二本松城へ。
 まずは、城跡の手前ある2022年4月にオープンしたばかりの新施設「にほんまつ城報館」で、この地域の歴史のお勉強から。全方位から画像が流れるガイダンス室で、二本松城の在りし日の姿と城址の「霞ケ城公園」の四季についてのビデオをじっくり鑑賞する。
 江戸期以降の二本松城の藩主は、織田信長を勇猛な武将として知られた丹羽長秀の流れをくむ丹羽氏で、その家紋が「×」印の直違紋(すじかいもん)であること、城は戊辰戦争時に灰燼と帰したこと、1982年に楼門の「箕輪門」が再建されたことなどを知る。有料の常設展示室を見なくても、これだけの情報が手に入れば十分だ。

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(オープンして日の浅い「にほんまつ城報館」)

 それから城へと赴き、戊辰戦争で若い命を散らした二本松少年隊を顕彰する「二本松少年隊群像」や、箕輪村(現・二本松市内)の山から伐り出したご神木を主材としたことから命名された「箕輪門」、三の丸広場にあった「二本松製糸株式会社」の創立者の山田脩翁像などを見ながら「霞ケ城公園」を散策する。
 思いのほか立派な城跡だった。「二本松の菊まつり」も毎年ここで開催されているらしい。
 その後、中心部の商店街や駅前を車窓からひと眺めして、岳温泉へと向かう。

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(「二本松少年隊群像」と復元「二本松城」)

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(二本松城「箕輪門」)

 くねくねとした山道をしばらく上っていった先にあった岳温泉のメインストリート「ヒマラヤ大通り」は、山に向かって一直線のゆるやかなスロープになっていて、なかなか風情のある通りに整備されている。
 岳温泉について調べたところ、現在の温泉地ができるまでにはいろいろとあったようだ。
 平安時代の古記録にはすでに「小結(こゆい)温泉」の名で京の都においてもその存在が知られていたといい、その後、温泉の名称は“湯日(ゆい)”、“十文字”、“深堀”、“岳”と変わっていく。その理由は、長い歴史の間に土砂崩れや火災に遭遇し、その都度場所を移し、姿を変えてきた苦渋の足跡があるからだという。
 江戸中期には二本松藩によって「湯日温泉」として整備され、湯女(ゆな)も許可されている歓楽温泉場として来湯客で賑わいを博していたが、1824年、連日の雨と台風で安達太良山の一角が崩壊し、土石流が温泉街を飲み込んでしまう。
 二本松藩は、陽日温泉街より6kmほど下の平原地に温泉街をつくるべく標高1,500mの湯元から引湯する大がかりな工事を行い、新温泉地を「十文字岳温泉」として再建。しかし、1868年の戊辰戦争において、敵の拠点になることを恐れた二本松藩士によって焼き払われてしまう。
 その3年後、現在の岳温泉の西南部のエリアに「深堀温泉」として温泉街が再々建されるが、明治維新の動乱期のため過去のような賑わいは生まれず、1903年には旅館からの失火によってまたもや温泉街は全滅してしまう。
 だが、焼失した温泉街を再再々建すべく立ち上がった有志たちが尽力し、「岳温泉」として復活する。1955年には全国で7カ所しかなかった国民保養温泉の一つに指定されて繁栄の基礎を築く。
 その後は各旅館や商店が一体となり、1982年には全国に先駆けた「ニコニコ共和国」独立宣言をするなどして、その名は広く普及した――ということのようだ。

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(「ニコニコ共和国国会議事堂」は岳温泉観光案内所だった)

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(ソースかつ丼の名店「お食事処成駒」)

 「ヒマラヤ大通り」の入口には、1980年代に岳温泉旅館協同組合が町おこしの一環として開国して一世を風靡した、バスの「国際線ターミナル」を併設する「ニコニコ共和国」の「国会議事堂」や、ソースかつ丼の有名店「成駒食堂」などがあった。
 ただ、通りを車窓から眺めると、沿道に並んでいたはずのいくつかの旅館の建物は営業していず、そのままの姿で放置されている格好になっていて、少し寂しげだ。岳温泉に限らず、どこも温泉街は苦しい状況にあるのかもしれない。

 そのなかでも今夜泊まる伊藤園グループの「碧山亭」は気を吐いている旅館のひとつのようで、15時に着いた駐車場にはすでに多くの車が停まっていた。最上階となる6階の「鏡ヶ池」が見える広い部屋があてがわれ、風景を眺めながらおぉいいねぇと荷物を解き、これが目的だったのよとばかりにすぐにお目当ての大浴場へ。
 大浴場は適度な広さがあり、先客は数人程度。わずかに湯の花が浮遊していて、淡いにごり酒のようなうっすらとした白い色が着いている。この湯を内風呂と露天風呂で存分に堪能し、早くもややのぼせ気味となる。

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(「鏡ヶ池」と「碧山亭」)

 部屋に戻って、道すがらのコンビニで調達してきた缶の黒生ビールを「お疲れ生です」とつぶやきながら1本やっつけて、夕食は少し早い17時半から。
 鰆の香草焼き、ホタルイカなど季節ものの先付けセットがとてもよく、これに刺身と豚しゃぶ、さらにはオプションで追加した食べ応えのあるたらば蟹の極太チクチクのおみ足2本も食べる。ほかにも寿司や串揚げなど何種類かのバイキング料理も用意されていて、きわめて充実した食事となる。
 アルコール類もフリードリンクになっているのがよく、グラスビールを2杯、強炭酸ハイボールを2杯飲んで、酔いも回る。ただ、70分間という時間制限があって2部の入れ替え制となっているところがなんだかビミョーにあわただしいのだった。

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(「碧山亭」の夕食)

 食事を終えて部屋に戻れば、もう眠気がやってくる。部屋で飲もうと多めに買ってきたアルコール類は食事会場で飲んだフリードリンクで十分に満たされてもう飲めず、寝る前に再度入るつもりでいた風呂も省略となり、もうダメだぁと布団に身を委ねるのだった。そうしてかまわないところも、温泉ステイのいいところだ。
 歯磨きと小用のため23時台に一度起きたものの、そのほかはずっと眠れたようだった。

 そこからさらに西へと進んで、日本銀行金融研究所の「貨幣博物館」を見にいきました。
 日本銀行創立百周年の1985年開館で、和同開珎や大判・小判の実物など、日本の古代から現在に至るさまざまな貨幣や関係資料のほか、世界の珍しい貨幣も展示しています。
 入館無料なのはいいことなのですが、入館受付時にX線検査装置と金属探知機による所持品検査が求められるなど対応が物々しく馬鹿丁寧です。警備上の理由とはいいますが、そこまでやる必要があるのか、一般客としては疑問です。自分たちは選ばれていると勘違いをしているむこう側の人々は、一般人は悪い奴ばかりだと思っているようです。
 入室前のエントランスだけ撮影可で、展示物は一切写真撮影禁止としていることについても、疑問が募るし、今どき時代遅れだと思います。撮られて困るようなものなどそうないではありませんか。

 あまりいい気分がしないまま見終えて外に出ると、そこには「日本銀行本店ビル」がありました。
 言わずと知れた、1882年創業の日本の中央銀行で、江戸時代の金座(金貨鋳造所)の跡地に建っています。上から見ると「円」の文字のように見える1896年竣工の本館は、明治時代の貴重な本格的洋風建築として国重文になっていて、その建物は想像していたよりも大きく感じました。その周りにも関係する建物がいくつかあり、それらはいずれも立派で権威主義的に見えた――と言っておきましょう。

 「三井記念美術館」前の道を通って、その向かいにある「日本橋三越本店」に入り、買い物もしないのに店内をひととおり眺めてみます。さすが日本を代表するデパートだけあって、1階の化粧品売り場の設えはシックで素晴らしいと思いました。平日の午前中だったためか客は少なく、入込み状況としては地方の百貨店とそう変わりません。エスカレーターで8階まで行ってみましたが、英国物産展が行われている7階だけは超満員なのがなんだか可笑しかったです。

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(「貨幣博物館」での写真撮影は、展示室手前のここまで)

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(日本銀行本店ビルの一角)

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(いい雰囲気の「日本橋三越本店」1階)

 このたびの東京散歩はここまで。
 昼食は、人形町駅付近まで歩いて戻り、事前にリストアップしていた「アジア料理菜心」で、サービスランチ900円を食べました。
 アジア料理を名乗っていますが、店の女性は中国系のようで、食べた「XO醤と野菜の鶏肉炒め」は中華料理風。搾菜・白飯・スープ付き。メイン以外はすべてスチロール製の皿というのが泣かせますが、味は確かで、料理もごはんも量が多めでした。主菜が汁がちだったので、これはこうやるべきだろうと、途中からつゆごとごはんにかけてレンゲでパクつきます。人形町にも安価でしっかりした内容のいい店がありました。

 食べ終える頃には正午となり、入店者が増えてきたので、冷たい中国茶をもう1杯もらって飲んで退店しました。この界隈にいくつかある狭い路地には飲食店がひしめいていて、「ランチ・とんかつ定食800円」を掲げる小さな中華料理店など、そそる店をいくつか見つけました。うん、いいトコだったな、人形町。

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(「アジア料理菜心」のXO醤と野菜の鶏肉炒め)

 いい時間になったので、荷物をテイクして、日比谷線で上野へ。
 上野駅新幹線コンコースでしばらく、エアコンの吹き出し口に近いところを選んでベンチで汗をひかせて、13時06分の「つばさ」に乗ります。
 車内では本を取り出したものの、東京の暑さと湿気にやられてしまい、ほぼすぐさま眠りへ。米沢を過ぎるぐらいまでずっとうつらうつらしていました。


 ということで、2022年8月末の東京散歩のインプレを終えます。
 今回の上京の前に、上記のほかにも何か所か訪問地をリストアップしていました。それらは、湯島聖堂、神田明神、聖橋(ひじりばし)、ニコライ堂、明治大学博物館、阿久悠記念館などがある「お茶の水界隈」、神田古書店街、すずらん通り、岩波ホールなどがある「神保町界隈」、新橋の旧新橋停車場鉄道歴史展示室、中央区の築地本願寺、勝鬨橋、かちどき橋の資料館、警察博物館などでした。
 これらについては、またいずれ機会があれば見て歩きたいと思っています。

(了)

 2022年8月31日(水)。山形に戻る日です。
 10時前に人形町のホテルをチェックアウトし、フロントでキャリーバッグを預かってもらい、午前中だけ東京街歩きを続行します。今日は日本橋界隈へと向かいます。

 ホテルからてくてくと東のほうへ歩けば日本橋はすぐなのですが、この日のこの時間の東京は早くも異常に気温が上がっている上に、湿度がハンパありません。数分歩いて日本橋の北東橋詰に着き、写真を撮ろうとすると、レンズが曇っていてなかなか写真が撮れません。つまり、ホテルの部屋の温度及び湿度とは格段の差があったということで、日本橋前で曇りが取れるまでしばしボーゼンとしていました。こんな湿気は東北地方ではあまり体験することがありません。

 橋の北詰に、「日本橋魚市場発祥の地」のモニュメントがありました。
 説明版には「日本橋川沿いの魚河岸は、近海諸地方から鮮魚を満載した船が多く集まり、江戸っ子たちの威勢の良い取引が飛交う魚市が立ち並んだ場所で、1日に千両の取引があるともいわれ、江戸で最も活気のある場所の一つでした」と書かれていました。
 それから、日本橋を北から南へと渡ってみます。それにしても橋の真上にある首都高都心環状線の高架は邪魔すぎで、せっかくの景観が台無しです。これでは「景観行政」なんてあったものではありません。日本の道路交通の原点というシンボリックな場所なのですから、ここぐらいは金がいくらかかってもアンダーパスにするなどの改良を行うべきではないでしょうか。

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(日本橋魚河岸跡にあったモニュメント)

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(「日本橋」の真上の高架はどうにかせんといけん!)

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(せっかくの名橋が薄暗くなっています)

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(日本橋麒麟像(西側))

 橋を渡りきった南西橋詰には、「日本橋由来記の碑」がありました。
 屋根の付いた石碑に漢字とカタカナで由来が記されています。1603年に日本橋がはじめて架けられ、東海道をはじめとする5街道の起点を日本橋としたことなどが記されているようです。
 北西橋詰には「日本国道路元標複製」などがありました。なお、ホンモノの元標は、日本橋の車道上にあるため、見学には不向きのようです。

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(日本橋由来記の碑)

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(日本国道路元標複製)

 日本橋の下を流れているのは日本橋川という一級河川ですが、画像のとおり川面の上のほぼ全面が首都高の高架で覆われています。あとで地図を見ると、この光景は上流の神田錦町まで続き、その先は、神田川から水道橋で分岐するところまですべて暗渠になってしまっているという、痛ましい川なのでした。高度経済成長時にはずいぶんひどいことをしたものです。

 複製日本国道路元標のある日本橋北詰交差点の北西角には「三越日本橋本店」がありました。
 開業1904年。画像のアールの入った14階建てのビルは新館で、2004年に竣工したものであるとのことです。
 ビルの南側の通りを歩くと、歩道脇には“銀座の柳”が配され、なぜか2階付きのロンドンバスが停まっていました。これも調べてみると、日本橋三越で「三越英国展」の開催中、このバスを貸切でクルージングできるサービスを提供しているようなのでした。

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(高架が覆って薄暗い日本橋川)

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(「三越日本橋本店」新館)

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(銀座の柳とロンドンバス)

 国技館付近から南下して「JR両国駅」へ。
 JR両国駅は2016年に旧駅舎が全面リニューアルされたばかり。旧駅舎のアーチ型の3つの大きな窓や、中央の駅時計などの面影を残し、江戸の町屋を意識した吹抜け空間に改装したのだそうです。館内には、相撲協会監修の土俵が設置され、江戸情緒もたっぷりのつくりになっていました。
 また、総武線ガード下に店々が並ぶ風景はいかにも都会にある庶民のオアシス的でいい雰囲気です。こういうところで夕暮れ時に一杯やるのもいいかもしれないなと、近隣の生活者をうらやましく思ったところです。

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(「JR両国駅」のファサード)

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(総武線のガード下に店々が並ぶ風景がいい)

 ぼちぼち両国を切り上げ、隅田川を西へと渡って帰ることにしようか。そう思って国技館通りを南下して突き当たったところにあった、「両国回向院」にも立ち寄ってみます。
 明暦の大火(振袖火事、1657年)の焼死者10万余人を、当時の将軍徳川家綱の命によって葬った「無縁(万人)塚」が始まりで、のちの安政大地震のほか、水死・焼死・刑死した者などの無縁仏も埋葬しているところです。また、家綱の愛馬を供養したことに由来し、各種動物の供養もしているようです。
 行ってみてわかったこととして、この地は1768年に回向院で初めて相撲の興行が行われ、国技館建設まではここで相撲がとられていたらしいこと。さらには、この北並びには1909年に建てられた旧両国国技館があったことなど。参道の左手にあった「力塚」は、そのような歴史を背景に1936年、大日本相撲協会が物故力士や年寄の霊を祀るために建立されたとのことです。
 また、参道の奥のほうの墓地群の一角には、時代劇で義賊として活躍する通称ねずみ小僧、「鼠小僧次郎吉の墓」がありました。墓石には「天保二年八月十八日 俗名中村次良吉之墓」と、戒名「教覚速善居士」と記されており、鼠小僧の「するりと入れる」軽やかな身のこなしから、現在も受験生が合格祈願に来るのだそうです。

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(「両国回向院」の山門)

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(力塚)

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(鼠小僧次郎吉の墓)

 回向院を西へと進んで、隅田川に架かる「両国橋」を渡ります。
 隅田川と神田川の合流点付近にある、中央区東日本橋と墨田区両国を結ぶ、1932年竣工の橋です。国境が変更される17世紀後半まではここが武蔵国と下総国の国境になっていたことから、両国橋と呼ばれたのだそうです。橋の東詰付近にも首都高速の高架が架けられていて、風景は無残です。

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(「両国橋」の東詰付近)

 両国橋から地下鉄浅草橋駅までは、歩いてほどなくの距離です。駅に向かうべく北に折れたところ、隅田川に架かる「浅草橋」がありました。澱んだような川面に沿って船宿と屋形船がずらりと並ぶ風景は、昭和の東京そのままといういい眺めです。
 浅草橋から地下鉄都営浅草線で人形町へと戻ります。

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(昭和の風情が残る「浅草橋」からの眺め)

 人形町に戻った段階で、喉の渇きが抑えきれなくなり、人形町交差点近くの「中華食堂日高屋人形町店」に寄って、餃子をつまみに生ビールをごくごくと。ああ、うまいな。初めて酢胡椒で餃子を食べてみましたが、これはおいしい食べ方でした。

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(「中華食堂日高屋人形町店」でギョール)

 15時前、ホテルの部屋帰着。ああ疲れた。この日はここまでで1万6千歩。昨日よりは少ないけれども、2日連続なので、脚のきつさは昨日よりも増幅しています。
 東京ステイの最終夜なので、その後は夕刻からたっぷり飲んで、早めに寝ることにしました。

 地下鉄両国駅で下車し、地下道を北へと歩いてまずは「横網町公園」へ。
 ここも鬱陶しい霧雨が止まないままですが、なんとかずぶ濡れにならない程度でとどまってくれているので、歩くことにします。
 この公園には、関東大震災や第二次大戦の戦災のメモリアルパークとして歴史的な建造物及び記念碑が数多く保存されています。
 そのひとつが「東京都慰霊堂」です。どんとした立派な建物の前にあった説明書きによれば、関東大震災(1923年)で最大の死者が出た被服廠の跡に建てられたもので、その震災遭難者とともに第二次大戦の戦災遭難者の霊を併せて奉安している場所であるとのことです。
 毎年9月1日の震災記念日と東京大空襲(1945年)のあった3月10日には大法要が行われているとも記載されていました。この日はその法要の2日前ということで、準備が始められていました。来年は大震災から100年の節目の年になります。

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(東京都慰霊堂)

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(慰霊堂正面)

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(慰霊堂内部)

 横網町公園内の日本庭園を歩いて、公園の北東角にある「東京都復興記念館」へ。
 東京都慰霊堂の付帯施設として1931年に建てられた展示館です。関東大震災と戦災資料が展示されており、入館無料で、誰もがその惨禍を目の当たりにできるようにされています。
 建物は、伊東忠太らの設計による鉄筋コンクリート2階建。門・柱・屋根の装飾など剛健と繊細さも併せ持つ建築で、内装や窓にも建築当時の面影が感じられます。
 当時のものが多く展示されていますが、特に大震災時の写真の力は訴求力が強く、生々しさがずしんと伝わってきました。

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(横網町公園の日本庭園を歩いて――)

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(「東京都復興記念館」のファサード)

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(多くの写真から、震災の生々しさが伝わってきた)

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(震災の焼け跡に残った物の数々)

 横網町公園からいったん地下鉄両国駅方面へと戻り、「江戸東京博物館」の北側の細路地を西へと進んで、「両国国技館」方面へと向かいます。
 「江戸東京博物館」は、江戸・東京の歴史や文化、生活を体感できる博物館として見どころ満載のようなのですが、大規模改修工事のため全館休館中。再オープンは2025年以降だそうです。
 そして「両国国技館」も、場所開催中でもないため建物の近くに寄ることもできず、守衛の数も多くて近寄り難い感じです。東京を歩いていて思ったのですが、この大都会には守衛を業として生きている人々はどのくらいいるのでしょう。おそらく、扶養家族を含めれば5万人は下らないのではないでしょうか。そんなクダラナイことを考えてしまうのでした。
 平日は開館しているはずの「相撲博物館」も入口がわからず入れずじまい。国技館では唯一ギフトショップには入れましたが、こういう扱いをされれば何も買わないで帰りたくなるものです。

 国技館から少々北へと歩を進めていくと、入場無料の「旧安田庭園」があったので、入ってみます。
 江戸期、丹後宮津藩主本庄因幡守の屋敷跡で、安政年間(1854~60)に隅田川の水を引いて潮入回遊式庭園として築庭されたものであるとのこと。管理が大変な庭園で入場料を求めないのは珍しいと思います。

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(旧安田庭園)