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   ボーダーインク  1800円+税
   1996年12月20日 初版第1刷発行
   2021年8月20日 新版第1刷発行

 沖縄物も読みたくなり、未読ストックから山入端つるの一代記を取り出して読みました。
 山入端つる(1906~2006)は、屋部村(現・名護市屋部)生まれの沖縄の唄者。13歳の時から辻の芸妓となって育ち、19歳のときに辻を出奔し、三線片手に宮古、奄美、大阪、東京など職を転々としながら渡世します。
 戦後は、沖縄移住者の多い神奈川県川崎や鶴見で、琉球芸能の地謡を務めるなど琉球芸能の普及、発展に貢献。1957年に東京新橋で琉球料理店「颱風」を経営、1974年には沖縄に引き揚げ、余生を郷里で百歳まで過ごしたといいます。

 この本はもともと、1959年10月から琉球新報に連載されたもので、著者は山入端つるとなっているのですが、巻末にある三木健の文章によると、沖縄の歴史学者・東恩納寛淳がつるの生きざまに心を打たれ、聞き書きで書き綴ったものであると記されています。その頃寛淳は、妻に先立たれた孤独の身を、つるが営む新橋の琉球料理店「颱風」に通って慰めていたようです。
 これを新聞に連載する際、当時の編集局長だった池宮城秀意は、社長の親泊政博からこの原稿を渡され、「寛淳の娘からこの原稿は新聞に出さないでくれと言われているが、適当に処理してくれ」と告げられたといいます。池宮城は思案の末、これを東恩納教授が「校閲」したことにし、つるが書いたものとして掲載したというのが真相のようでした。

 「沖縄島ガール」というウェブページに載っていた書評を一部抜粋し、以下に引用しておきます。

 ……山入端氏の出身地である、沖縄本島北部の名護の屋部の紹介からスタート。山入端氏の祖父が音楽好きであったことから「私の芸能に対する執心は、祖父の血筋を引いたものであろう」という文章と、「私の悲しい運命もまたその遺産かも知れない」という物語を予感させる言葉から始まる。
 その後、13歳の時に辻の遊郭に売られ、その年から芸事の手習いを始めていく。19歳になった頃、流れのままに宮古島に渡り、それからも奄美、大阪、東京と転々としながらも、その土地土地で沖縄の芸能を忘れることがなかった。
 「沖縄の芸能が広いところに出て、見聞を広くしない限り進歩の道はない」「芸能人が自重して自ら品格を保つことによって、芸能の品位を高めねばならぬとかねがね考えている」と、1冊を通して、芸事に懸ける山入端氏の思いが伝わってくる。
 本書の意義はもちろんそこにあるのだが、この文章の価値を高めているのは、その当時の沖縄に対する社会的ポジションや文化・風俗が具体的な言葉で伝わってくる点。
 「東京ではどこの下宿屋でも『琉球人、朝鮮人お断り』の札」があったり、家を建てた際に建築許可を取りに行ったら「沖縄人には許可しない」と言われたり、沖縄が置かれていた位置が分かり、「サツマイモやジャガイモ(中略)、おかっぼ(陸稲)までも作った」と食糧が貴重だったなど、当時の時代背景が生々しい言葉でつづられている。
 そして、終戦後間もなく山入端氏は沖縄に戻るが、沖縄では芸事を披露することを控えていたというが、その理由を「沖縄では芸能の価値がほんとうには理解されていないと考えていた」と、何とも彼女らしい言葉で書き留めている。
 ……ある種ストイックで凛とした山入端氏の姿勢と、その山入端氏のスタイルを的確な言葉で伝えた東恩納氏の2人だからこそ生まれたこの名著。今回、「新版」という形で刊行されることで、新たな読者に届き、さらなる沖縄芸能の評価につながりそうだ。

(2022.10.23 読)

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