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2022.12.04
20221203 土
眠りが浅く、たくさん寝ても眠り足りず、朝寝坊までして7時15分起床。
気温が低くて寒いからということもある。二重窓の一部が凍結している。換気のため薄開きにしていた各部屋の窓を全閉し、家の換気システムのスイッチを入れる。今朝の最低気温は-3.3度と今季最低だった。

(本日、冬の快晴(正午ごろ))
朝の諸作業を終えた9時半頃から、この日は真面目に読書へと移行し、昼食前までに「幻影の嘉例吉―牧志朝忠とチル」を50ページ余り読んで読了する。
「あとがき」にあったあらすじを概括すると、次のとおり。
牧志朝忠(1818~1862)は、北京での留学中に清国が阿片戦争で英国に敗れたことに衝撃を受け、琉球の自立のためにはまず、琉球の人々が個人として自立しなければならないと考える。
帰国後、朝忠は異国通事として活躍し、次々に来訪する異国船の対応に当たり、高い見識により異国艦隊の人々にも深い感銘を与えた。当時琉球は、清朝と薩摩藩に両属しつつも、国際法上は独立国として、米仏蘭各国と条約を結ぶ。そうした中で朝忠は、中級武家の出身ながら、のちに王国閣僚にまで出世する。
チルは、久米島から琉球本島に流れてきた薄幸の少女。貧困にあえぐ家族を救うため、辻の遊郭でジュリ(遊女)となることを自分の意思で決める。しかし天性の才能をもつ舞踊の世界で大きく羽ばたき、自立した琉球の女としての道を進み、朝忠との運命的な出会いを通して、チルもまた琉球の歴史の中で役割を果たすことになる。
琉球の王宮内では摩文仁親方の率いる親清国の守旧派が主導権を握っていたが、宗主国藩主の島津斉彬は、家臣の市来正衛門を派遣して琉球王府の改革を断行させた。この改革はいったん成功したかに見えたが、斉彬の急死によって挫折。ここに親薩摩・改革派(白党)と親清国・守旧派(黒党)との間の熾烈な抗争が展開される。対立はやがて朝忠を巻き込んで一大粛清事件に発展(「牧志・恩河事件」)。同志の恩河親方は凄惨な拷問の末に獄死、朝忠も終身禁固刑を受けて獄舎に繋がれる。
3年後、朝忠は薩摩藩に救出され、チルとも再会する。しかし彼は、御用船で鹿児島に向かう途中、本島最北端の海峡で「自ら急流に身を投じて」死んだとされる。
だが、自死を選ぶ理由など全くない。では、誰が牧志を殺したか。朝忠の若い頃からの親友・津波古政正とその弟子・喜舎場朝賢がその謎に迫り、ついに真相が明らかとなる。
これは、琉球の海にジュゴンの群れが多く回遊していた頃の物語である。―――

(本日の昼食)
昼食は、家で。ナポリタンをつくるのだと、昨夜のうちにつれあいから告げられていたものだ。なめこを、味噌汁ではなくコンソメでスープに仕立てたものと、旬のりんご。
午後は、だらけずにカキモノに入り、読後本のインプレを4本書き上げる。今日は締まっているゾ。(笑)
本を「納豆に砂糖を入れますか?」に持ち替えて、夜までに70ページ。汁かけ飯、日本の大衆食堂、鮭とブリについての章を読み、最終章は「糸魚川-静岡構造線を歩く」。読者からの投票によって様々な食文化地図をつくってくると、糸魚川-静岡構造線を挟んで顕著な違いを見せる文化が少なくないことが判明したと著者はいい、2009年10月に17泊18日の構造線をたどる旅へと赴いている。そして、薬味として使うネギが白か青か、うどんとそば文化の分かれ目は、カツ丼はタレか卵とじか、醤油の甘・辛はどうか、蒲鉾は板付きか否か、稲荷寿司は三角か俵型か――などについて調査しているのだった。
文章には、新潟の醤油だれのカツ丼が登場する。揚げたての薄めのトンカツを“甘辛醤油ダレ”にくぐらせて、ご飯にのせただけのシンプルなものデアルとのことで、そそられる。その元祖は新潟市古町の「とんかつ太郎」だという。いずれ食べてみたい。

(新潟のタレかつ丼)
夜は、比較的軽めのつまみ2品で缶チューハイを飲み、ウェブからNEW日産エクストレイルの諸元表とオプションカタログを入手して、どういうクルマなのか調べてみる。4WDは30万円近く高めで、オフロードや冬季の走行などはほとんどないというか、そういう場所や季節は運転しなければいいので、自分の場合2WDで十分か。グレード的にもスタンダードのSで十分のようだ。今乗っているクルマのタイヤも使えるのではなかろうか。
だが、この車種は販売好調により現在、注文受付を停止しているようだ。いいんだ、この車種がすごく欲しいというわけでもないし、べつに慌てて買い替える必要もなく、いまだ勉強中という段階なので。
ほかには、市内の飲食店情報の収集も少し。
24時15分に消灯、就寝。
気温が低くて寒いからということもある。二重窓の一部が凍結している。換気のため薄開きにしていた各部屋の窓を全閉し、家の換気システムのスイッチを入れる。今朝の最低気温は-3.3度と今季最低だった。

(本日、冬の快晴(正午ごろ))
朝の諸作業を終えた9時半頃から、この日は真面目に読書へと移行し、昼食前までに「幻影の嘉例吉―牧志朝忠とチル」を50ページ余り読んで読了する。
「あとがき」にあったあらすじを概括すると、次のとおり。
牧志朝忠(1818~1862)は、北京での留学中に清国が阿片戦争で英国に敗れたことに衝撃を受け、琉球の自立のためにはまず、琉球の人々が個人として自立しなければならないと考える。
帰国後、朝忠は異国通事として活躍し、次々に来訪する異国船の対応に当たり、高い見識により異国艦隊の人々にも深い感銘を与えた。当時琉球は、清朝と薩摩藩に両属しつつも、国際法上は独立国として、米仏蘭各国と条約を結ぶ。そうした中で朝忠は、中級武家の出身ながら、のちに王国閣僚にまで出世する。
チルは、久米島から琉球本島に流れてきた薄幸の少女。貧困にあえぐ家族を救うため、辻の遊郭でジュリ(遊女)となることを自分の意思で決める。しかし天性の才能をもつ舞踊の世界で大きく羽ばたき、自立した琉球の女としての道を進み、朝忠との運命的な出会いを通して、チルもまた琉球の歴史の中で役割を果たすことになる。
琉球の王宮内では摩文仁親方の率いる親清国の守旧派が主導権を握っていたが、宗主国藩主の島津斉彬は、家臣の市来正衛門を派遣して琉球王府の改革を断行させた。この改革はいったん成功したかに見えたが、斉彬の急死によって挫折。ここに親薩摩・改革派(白党)と親清国・守旧派(黒党)との間の熾烈な抗争が展開される。対立はやがて朝忠を巻き込んで一大粛清事件に発展(「牧志・恩河事件」)。同志の恩河親方は凄惨な拷問の末に獄死、朝忠も終身禁固刑を受けて獄舎に繋がれる。
3年後、朝忠は薩摩藩に救出され、チルとも再会する。しかし彼は、御用船で鹿児島に向かう途中、本島最北端の海峡で「自ら急流に身を投じて」死んだとされる。
だが、自死を選ぶ理由など全くない。では、誰が牧志を殺したか。朝忠の若い頃からの親友・津波古政正とその弟子・喜舎場朝賢がその謎に迫り、ついに真相が明らかとなる。
これは、琉球の海にジュゴンの群れが多く回遊していた頃の物語である。―――

(本日の昼食)
昼食は、家で。ナポリタンをつくるのだと、昨夜のうちにつれあいから告げられていたものだ。なめこを、味噌汁ではなくコンソメでスープに仕立てたものと、旬のりんご。
午後は、だらけずにカキモノに入り、読後本のインプレを4本書き上げる。今日は締まっているゾ。(笑)
本を「納豆に砂糖を入れますか?」に持ち替えて、夜までに70ページ。汁かけ飯、日本の大衆食堂、鮭とブリについての章を読み、最終章は「糸魚川-静岡構造線を歩く」。読者からの投票によって様々な食文化地図をつくってくると、糸魚川-静岡構造線を挟んで顕著な違いを見せる文化が少なくないことが判明したと著者はいい、2009年10月に17泊18日の構造線をたどる旅へと赴いている。そして、薬味として使うネギが白か青か、うどんとそば文化の分かれ目は、カツ丼はタレか卵とじか、醤油の甘・辛はどうか、蒲鉾は板付きか否か、稲荷寿司は三角か俵型か――などについて調査しているのだった。
文章には、新潟の醤油だれのカツ丼が登場する。揚げたての薄めのトンカツを“甘辛醤油ダレ”にくぐらせて、ご飯にのせただけのシンプルなものデアルとのことで、そそられる。その元祖は新潟市古町の「とんかつ太郎」だという。いずれ食べてみたい。

(新潟のタレかつ丼)
夜は、比較的軽めのつまみ2品で缶チューハイを飲み、ウェブからNEW日産エクストレイルの諸元表とオプションカタログを入手して、どういうクルマなのか調べてみる。4WDは30万円近く高めで、オフロードや冬季の走行などはほとんどないというか、そういう場所や季節は運転しなければいいので、自分の場合2WDで十分か。グレード的にもスタンダードのSで十分のようだ。今乗っているクルマのタイヤも使えるのではなかろうか。
だが、この車種は販売好調により現在、注文受付を停止しているようだ。いいんだ、この車種がすごく欲しいというわけでもないし、べつに慌てて買い替える必要もなく、いまだ勉強中という段階なので。
ほかには、市内の飲食店情報の収集も少し。
24時15分に消灯、就寝。
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