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   朝日文庫  520円+税
   1979年1月25日 第1刷
   1997年4月20日 第13刷発行

 表題には「甲賀と伊賀のみち」と「砂鉄のみち」しか見えていませんが、ほかに「大和・壺坂みち」「明石海峡と淡路みち」が収録されています。

 一行が「甲賀と伊賀のみち」を歩いたのは1973年春のことで、当時司馬はまだ50歳に達していない頃でした。伊賀上野の西の郊外から当時すでに人も歩かない林道のような道を、隠れ里の伊賀国に入る七口の一つ「御斎(おとぎ)峠」まで歩くという健脚ぶりを披露しています。

 「大和・壺坂みち」は、著者が奈良県の地図を見て、壺坂山や高取山に登りたくなって訪れたところ。大和八木駅から今井町に入りゆるやかに流れる時間を味わって、壺坂へ。途中、高松塚古墳に立ち寄り、さらに南の城下町土佐から高取城への急斜面を登り、本丸のある頂上からの眺めを楽しんだ後、壺阪寺へ向かって降りていくまで。

 「明石海峡と淡路みち」では、本州明石の魚の棚を歩いたあと、播淡汽船に乗って淡路島の岩屋に上陸します。出会った若い漁師たちと話し、淡路の海人は古代天皇が率いたいわば日本最初の海軍だったのだろうと述べています。
 さらに、淡路島が古代国家の誕生神話の主流をなす伝承を持っている地域であることを紹介し、一方で、車窓から樟(クスノキ)を発見し、樟に寄生する芋虫からテグスがつくられることや、テグスの発見によって日本の漁業ひいては漁村のあり方までが劇的に変わったこと、それを使い始めたのは江戸中期の阿波堂ノ浦の漁師たちだったとする宮本常一の説などを紹介しています。司馬らしい、多くのことを重層的に書き連ねていくやり方が読み取れます。
 淡路島は、2020年6月の四国一周車旅の際にひとめぐりしてきていて、司馬氏が足跡を刻んだ松帆の浦、洲本城、慶野松原、伊弉諾(いざなぎ)神宮などにも立ち寄っているので、既視感をもって読みました。

 「砂鉄のみち」には、作家の金達寿、考古学者の李進熙、雑誌「日本のなかの朝鮮文化」を主宰していた鄭貴文と鄭詔文の兄弟も同行。米子空港に降りた一行はまず雲伯国境の安来市に入り、「和鋼記念館」を見学しています。
 砂鉄がらみの道行きがかなりマニアックなものになってきていて、須田画伯は半ば呆れてか、これを「狂ひに似たる人々の群れ」と評した短歌を認めているのでした。
(2022.12.28 読)

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