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2023.03.09
岳温泉1泊の旅 01
2023年3月7日(火)。
かねてからブッキングしていた福島の岳温泉1泊ドライブを実行に移す。
母の病状も落ち着いていて、このところ病院からの連絡はない。何か起こらないとも限らないため、昨夏以降ずっと好きな旅にも出ず自宅に蟄居していたのだが、ようやく冬も過ぎて、こちらもそろそろ我慢ができなくなったというわけだ。
1月末のスパリゾート・ハワイアンズ2泊3日の旅に続いて、今回つれあいとともに自宅を空けるのは2日間。その間はなんとか支障なく暮らしていてほしいと願う。幸いにしてむこう2日間は、晴れて気温がぐんと上がるとの予報だ。
10時になったのをメドに出発。米沢の中華そばの名店「そばの店ひらま」で早めの昼食に米沢ラーメンを食べて、ずっと一般道を走って福島へ。

(「そばの店ひらま」の中華そば)
13時頃には二本松に入り、市の中心部に向かってナビの案内どおりに進んでいくと、油井(ゆい)というところで「智恵子の生家」があったので、立ち寄ってみる。
詩人・彫刻家の高村光太郎の妻で洋画家、紙絵作家の智恵子は、二人の愛を綴った光太郎の詩集「智恵子抄」で有名。その智恵子が生まれ17歳まで過ごしたのが、ここにある酒造業の家だった。
映画やドラマなどにも取り上げられた「智恵子抄」だが、実はそれを読んだことはなく、二人の詳しい関係もよく知らない。生家の裏庭には当時の酒蔵をイメージした「智恵子記念館」があり、病に侵された智恵子が制作した紙絵や、当時の女性としては珍しい油絵の作品等が展示されているようだったが、興味が湧いてこず、入館はせずに周辺を歩いて眺めるにとどめる。
帰宅してから調べてみると、日本女子大に進んだ智恵子は、卒業後も東京に留まって絵画を学び、雑誌「青鞜」の表紙絵を描くなどして、若き女性芸術家として注目されるようになる。文壇で活躍する光太郎と出会い同棲し始めたものの、父の死、実家の破産と一家離散、自身の絵画制作への閉塞感、結婚以前から病弱などが原因で、統合失調症の兆しが表れ、1938年に死去している。

(「智恵子の生家」は「花霞」の酒蔵だった)
続いて、二本松城へ。
まずは、城跡の手前ある2022年4月にオープンしたばかりの新施設「にほんまつ城報館」で、この地域の歴史のお勉強から。全方位から画像が流れるガイダンス室で、二本松城の在りし日の姿と城址の「霞ケ城公園」の四季についてのビデオをじっくり鑑賞する。
江戸期以降の二本松城の藩主は、織田信長を勇猛な武将として知られた丹羽長秀の流れをくむ丹羽氏で、その家紋が「×」印の直違紋(すじかいもん)であること、城は戊辰戦争時に灰燼と帰したこと、1982年に楼門の「箕輪門」が再建されたことなどを知る。有料の常設展示室を見なくても、これだけの情報が手に入れば十分だ。

(オープンして日の浅い「にほんまつ城報館」)
それから城へと赴き、戊辰戦争で若い命を散らした二本松少年隊を顕彰する「二本松少年隊群像」や、箕輪村(現・二本松市内)の山から伐り出したご神木を主材としたことから命名された「箕輪門」、三の丸広場にあった「二本松製糸株式会社」の創立者の山田脩翁像などを見ながら「霞ケ城公園」を散策する。
思いのほか立派な城跡だった。「二本松の菊まつり」も毎年ここで開催されているらしい。
その後、中心部の商店街や駅前を車窓からひと眺めして、岳温泉へと向かう。

(「二本松少年隊群像」と復元「二本松城」)

(二本松城「箕輪門」)
くねくねとした山道をしばらく上っていった先にあった岳温泉のメインストリート「ヒマラヤ大通り」は、山に向かって一直線のゆるやかなスロープになっていて、なかなか風情のある通りに整備されている。
岳温泉について調べたところ、現在の温泉地ができるまでにはいろいろとあったようだ。
平安時代の古記録にはすでに「小結(こゆい)温泉」の名で京の都においてもその存在が知られていたといい、その後、温泉の名称は“湯日(ゆい)”、“十文字”、“深堀”、“岳”と変わっていく。その理由は、長い歴史の間に土砂崩れや火災に遭遇し、その都度場所を移し、姿を変えてきた苦渋の足跡があるからだという。
江戸中期には二本松藩によって「湯日温泉」として整備され、湯女(ゆな)も許可されている歓楽温泉場として来湯客で賑わいを博していたが、1824年、連日の雨と台風で安達太良山の一角が崩壊し、土石流が温泉街を飲み込んでしまう。
二本松藩は、陽日温泉街より6kmほど下の平原地に温泉街をつくるべく標高1,500mの湯元から引湯する大がかりな工事を行い、新温泉地を「十文字岳温泉」として再建。しかし、1868年の戊辰戦争において、敵の拠点になることを恐れた二本松藩士によって焼き払われてしまう。
その3年後、現在の岳温泉の西南部のエリアに「深堀温泉」として温泉街が再々建されるが、明治維新の動乱期のため過去のような賑わいは生まれず、1903年には旅館からの失火によってまたもや温泉街は全滅してしまう。
だが、焼失した温泉街を再再々建すべく立ち上がった有志たちが尽力し、「岳温泉」として復活する。1955年には全国で7カ所しかなかった国民保養温泉の一つに指定されて繁栄の基礎を築く。
その後は各旅館や商店が一体となり、1982年には全国に先駆けた「ニコニコ共和国」独立宣言をするなどして、その名は広く普及した――ということのようだ。

(「ニコニコ共和国国会議事堂」は岳温泉観光案内所だった)

(ソースかつ丼の名店「お食事処成駒」)
「ヒマラヤ大通り」の入口には、1980年代に岳温泉旅館協同組合が町おこしの一環として開国して一世を風靡した、バスの「国際線ターミナル」を併設する「ニコニコ共和国」の「国会議事堂」や、ソースかつ丼の有名店「成駒食堂」などがあった。
ただ、通りを車窓から眺めると、沿道に並んでいたはずのいくつかの旅館の建物は営業していず、そのままの姿で放置されている格好になっていて、少し寂しげだ。岳温泉に限らず、どこも温泉街は苦しい状況にあるのかもしれない。
そのなかでも今夜泊まる伊藤園グループの「碧山亭」は気を吐いている旅館のひとつのようで、15時に着いた駐車場にはすでに多くの車が停まっていた。最上階となる6階の「鏡ヶ池」が見える広い部屋があてがわれ、風景を眺めながらおぉいいねぇと荷物を解き、これが目的だったのよとばかりにすぐにお目当ての大浴場へ。
大浴場は適度な広さがあり、先客は数人程度。わずかに湯の花が浮遊していて、淡いにごり酒のようなうっすらとした白い色が着いている。この湯を内風呂と露天風呂で存分に堪能し、早くもややのぼせ気味となる。

(「鏡ヶ池」と「碧山亭」)
部屋に戻って、道すがらのコンビニで調達してきた缶の黒生ビールを「お疲れ生です」とつぶやきながら1本やっつけて、夕食は少し早い17時半から。
鰆の香草焼き、ホタルイカなど季節ものの先付けセットがとてもよく、これに刺身と豚しゃぶ、さらにはオプションで追加した食べ応えのあるたらば蟹の極太チクチクのおみ足2本も食べる。ほかにも寿司や串揚げなど何種類かのバイキング料理も用意されていて、きわめて充実した食事となる。
アルコール類もフリードリンクになっているのがよく、グラスビールを2杯、強炭酸ハイボールを2杯飲んで、酔いも回る。ただ、70分間という時間制限があって2部の入れ替え制となっているところがなんだかビミョーにあわただしいのだった。

(「碧山亭」の夕食)
食事を終えて部屋に戻れば、もう眠気がやってくる。部屋で飲もうと多めに買ってきたアルコール類は食事会場で飲んだフリードリンクで十分に満たされてもう飲めず、寝る前に再度入るつもりでいた風呂も省略となり、もうダメだぁと布団に身を委ねるのだった。そうしてかまわないところも、温泉ステイのいいところだ。
歯磨きと小用のため23時台に一度起きたものの、そのほかはずっと眠れたようだった。
かねてからブッキングしていた福島の岳温泉1泊ドライブを実行に移す。
母の病状も落ち着いていて、このところ病院からの連絡はない。何か起こらないとも限らないため、昨夏以降ずっと好きな旅にも出ず自宅に蟄居していたのだが、ようやく冬も過ぎて、こちらもそろそろ我慢ができなくなったというわけだ。
1月末のスパリゾート・ハワイアンズ2泊3日の旅に続いて、今回つれあいとともに自宅を空けるのは2日間。その間はなんとか支障なく暮らしていてほしいと願う。幸いにしてむこう2日間は、晴れて気温がぐんと上がるとの予報だ。
10時になったのをメドに出発。米沢の中華そばの名店「そばの店ひらま」で早めの昼食に米沢ラーメンを食べて、ずっと一般道を走って福島へ。

(「そばの店ひらま」の中華そば)
13時頃には二本松に入り、市の中心部に向かってナビの案内どおりに進んでいくと、油井(ゆい)というところで「智恵子の生家」があったので、立ち寄ってみる。
詩人・彫刻家の高村光太郎の妻で洋画家、紙絵作家の智恵子は、二人の愛を綴った光太郎の詩集「智恵子抄」で有名。その智恵子が生まれ17歳まで過ごしたのが、ここにある酒造業の家だった。
映画やドラマなどにも取り上げられた「智恵子抄」だが、実はそれを読んだことはなく、二人の詳しい関係もよく知らない。生家の裏庭には当時の酒蔵をイメージした「智恵子記念館」があり、病に侵された智恵子が制作した紙絵や、当時の女性としては珍しい油絵の作品等が展示されているようだったが、興味が湧いてこず、入館はせずに周辺を歩いて眺めるにとどめる。
帰宅してから調べてみると、日本女子大に進んだ智恵子は、卒業後も東京に留まって絵画を学び、雑誌「青鞜」の表紙絵を描くなどして、若き女性芸術家として注目されるようになる。文壇で活躍する光太郎と出会い同棲し始めたものの、父の死、実家の破産と一家離散、自身の絵画制作への閉塞感、結婚以前から病弱などが原因で、統合失調症の兆しが表れ、1938年に死去している。

(「智恵子の生家」は「花霞」の酒蔵だった)
続いて、二本松城へ。
まずは、城跡の手前ある2022年4月にオープンしたばかりの新施設「にほんまつ城報館」で、この地域の歴史のお勉強から。全方位から画像が流れるガイダンス室で、二本松城の在りし日の姿と城址の「霞ケ城公園」の四季についてのビデオをじっくり鑑賞する。
江戸期以降の二本松城の藩主は、織田信長を勇猛な武将として知られた丹羽長秀の流れをくむ丹羽氏で、その家紋が「×」印の直違紋(すじかいもん)であること、城は戊辰戦争時に灰燼と帰したこと、1982年に楼門の「箕輪門」が再建されたことなどを知る。有料の常設展示室を見なくても、これだけの情報が手に入れば十分だ。

(オープンして日の浅い「にほんまつ城報館」)
それから城へと赴き、戊辰戦争で若い命を散らした二本松少年隊を顕彰する「二本松少年隊群像」や、箕輪村(現・二本松市内)の山から伐り出したご神木を主材としたことから命名された「箕輪門」、三の丸広場にあった「二本松製糸株式会社」の創立者の山田脩翁像などを見ながら「霞ケ城公園」を散策する。
思いのほか立派な城跡だった。「二本松の菊まつり」も毎年ここで開催されているらしい。
その後、中心部の商店街や駅前を車窓からひと眺めして、岳温泉へと向かう。

(「二本松少年隊群像」と復元「二本松城」)

(二本松城「箕輪門」)
くねくねとした山道をしばらく上っていった先にあった岳温泉のメインストリート「ヒマラヤ大通り」は、山に向かって一直線のゆるやかなスロープになっていて、なかなか風情のある通りに整備されている。
岳温泉について調べたところ、現在の温泉地ができるまでにはいろいろとあったようだ。
平安時代の古記録にはすでに「小結(こゆい)温泉」の名で京の都においてもその存在が知られていたといい、その後、温泉の名称は“湯日(ゆい)”、“十文字”、“深堀”、“岳”と変わっていく。その理由は、長い歴史の間に土砂崩れや火災に遭遇し、その都度場所を移し、姿を変えてきた苦渋の足跡があるからだという。
江戸中期には二本松藩によって「湯日温泉」として整備され、湯女(ゆな)も許可されている歓楽温泉場として来湯客で賑わいを博していたが、1824年、連日の雨と台風で安達太良山の一角が崩壊し、土石流が温泉街を飲み込んでしまう。
二本松藩は、陽日温泉街より6kmほど下の平原地に温泉街をつくるべく標高1,500mの湯元から引湯する大がかりな工事を行い、新温泉地を「十文字岳温泉」として再建。しかし、1868年の戊辰戦争において、敵の拠点になることを恐れた二本松藩士によって焼き払われてしまう。
その3年後、現在の岳温泉の西南部のエリアに「深堀温泉」として温泉街が再々建されるが、明治維新の動乱期のため過去のような賑わいは生まれず、1903年には旅館からの失火によってまたもや温泉街は全滅してしまう。
だが、焼失した温泉街を再再々建すべく立ち上がった有志たちが尽力し、「岳温泉」として復活する。1955年には全国で7カ所しかなかった国民保養温泉の一つに指定されて繁栄の基礎を築く。
その後は各旅館や商店が一体となり、1982年には全国に先駆けた「ニコニコ共和国」独立宣言をするなどして、その名は広く普及した――ということのようだ。

(「ニコニコ共和国国会議事堂」は岳温泉観光案内所だった)

(ソースかつ丼の名店「お食事処成駒」)
「ヒマラヤ大通り」の入口には、1980年代に岳温泉旅館協同組合が町おこしの一環として開国して一世を風靡した、バスの「国際線ターミナル」を併設する「ニコニコ共和国」の「国会議事堂」や、ソースかつ丼の有名店「成駒食堂」などがあった。
ただ、通りを車窓から眺めると、沿道に並んでいたはずのいくつかの旅館の建物は営業していず、そのままの姿で放置されている格好になっていて、少し寂しげだ。岳温泉に限らず、どこも温泉街は苦しい状況にあるのかもしれない。
そのなかでも今夜泊まる伊藤園グループの「碧山亭」は気を吐いている旅館のひとつのようで、15時に着いた駐車場にはすでに多くの車が停まっていた。最上階となる6階の「鏡ヶ池」が見える広い部屋があてがわれ、風景を眺めながらおぉいいねぇと荷物を解き、これが目的だったのよとばかりにすぐにお目当ての大浴場へ。
大浴場は適度な広さがあり、先客は数人程度。わずかに湯の花が浮遊していて、淡いにごり酒のようなうっすらとした白い色が着いている。この湯を内風呂と露天風呂で存分に堪能し、早くもややのぼせ気味となる。

(「鏡ヶ池」と「碧山亭」)
部屋に戻って、道すがらのコンビニで調達してきた缶の黒生ビールを「お疲れ生です」とつぶやきながら1本やっつけて、夕食は少し早い17時半から。
鰆の香草焼き、ホタルイカなど季節ものの先付けセットがとてもよく、これに刺身と豚しゃぶ、さらにはオプションで追加した食べ応えのあるたらば蟹の極太チクチクのおみ足2本も食べる。ほかにも寿司や串揚げなど何種類かのバイキング料理も用意されていて、きわめて充実した食事となる。
アルコール類もフリードリンクになっているのがよく、グラスビールを2杯、強炭酸ハイボールを2杯飲んで、酔いも回る。ただ、70分間という時間制限があって2部の入れ替え制となっているところがなんだかビミョーにあわただしいのだった。

(「碧山亭」の夕食)
食事を終えて部屋に戻れば、もう眠気がやってくる。部屋で飲もうと多めに買ってきたアルコール類は食事会場で飲んだフリードリンクで十分に満たされてもう飲めず、寝る前に再度入るつもりでいた風呂も省略となり、もうダメだぁと布団に身を委ねるのだった。そうしてかまわないところも、温泉ステイのいいところだ。
歯磨きと小用のため23時台に一度起きたものの、そのほかはずっと眠れたようだった。
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