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・南への衝動、北への衝動  by 谷川健一
  (「谷川健一全集7 沖縄三」(冨山房インターナショナル)から)

 私が沖縄通いをはじめたころ、私は奄美に立ち寄って島尾敏雄によく会った。後年、私との対談のとき島尾は「あのころは毎年渡り鳥のようにやって来ましたね」と言った。たしかに私は冬のころ沖縄通いをすることがつづいた。それはまるで本土の寒さを避ける渡り鳥のように見えたのかも知れなかった。
 北陸の白山の山系に棲むサシバ(ワシタカ科の小形のタカ)は、毎年陰暦10月のはじめころになると、大隅半島の尖端の佐多岬付近を通過し、道の島と呼ばれる奄美の島々ぞいに南下し、宮古、八重山の空が真っ黒く見えるほどの大群をなして、フィリピン諸島方面に向かう。このサシバのような本能が私の身体の奥のどこかで働いているのであろうか。いまもって南の島々への強い衝動のやむときがない。
 本土に近い奄美よりも沖縄の島々に南島の特徴は明確にあらわれている。たとえば沖縄にやってきたことを真っ先に実感するのは、島を取り巻く、珊瑚礁の暗礁に白い波が打ちよせている風景であるが、沖縄でヒシ(干瀬)と呼ばれる暗礁は奄美ではあまり発達していない。島尾は奄美を去ったあとは、沖縄に住むことを欲していたようだ。しかし家族の事情でそれが果たせず、奄美から神奈川県の茅ヶ崎に移り、さらに鹿児島に転住した。島尾が20年近い奄美生活ののち沖縄で過ごすことができたら、本人も満足であったろうし、また彼の文学と人生もいっそう完結した輝きを見せたにちがいないと、私はひそかに残念に思っている。
 その私ですら、一切の条件が許せば沖縄で自分の生を終えたいと思いながら、現実はどうしようもないのだから、島尾を責めるわけにはゆかない。島尾は沖縄本島、それも首里付近が好きだったようだが、私はむしろ先島が好きだ。このような思いは私だけではないらしい。数年まえのことだが、フランス文学者の岡谷公二と話をしたとき、岡谷も繋縛がなければすぐにでも沖縄に行くと言って、私も即座に同感したのであった。先日、拙著「南島文学発生論」を銚子市在住の作家常世田(とこよだ)令子に送ったが、その返礼の手紙に「南島と聞くだに胸が震えてしまう私です」と書いてよこした。
 このような現象を沖縄病とか島恋いと呼んでも差し支えない。しかし島尾、岡谷、常世田の諸氏にせよ、かくいう私にせよ、「若き犬の病」をわずらう年頃ではない。南島の風景がどのように美しくとも、島の人情がどれだけふかくとも、それに溺れてしまうにはあまりにも多くのことを体験しすぎている。この世に絵で措いたような楽園のあるはずもないことは充分知っている。それにもかかわらず、胸の奥底から突きあげる「南への衝動」とはいったい何か。何が私たちを突き動かすのか。
 それは柳田国男や折口信夫の研究を通してうかがうことができるように、日本列島に国家の萌芽もなかった時代の民族の記憶が、南島に触れて蘇ってくるからではないだろうか。日本の権力社会の中心からもっとも遠く離れた南の島の渚に立つとき、日常の垢に蔽われた自己がまるで借り物の衣裳のように脱ぎ捨てられ、真性の民族的自己が現れるのを自覚するからではないだろうか。南島では、生まれかわりまたは脱皮をスデルと呼んでいる。少なくとも私が南島で体験するのはこのスデルという感覚であるといってよい。
 だが、このような体験は南島においてだけ味わうものではない。白河関を越えて東北に足を踏み入れたとき、そこに展開する風土と自然の営みに、どこか北方大陸とつながっているようなふしぎな感情を味わう。シベリアから飛来する白鳥は秋の彼岸ごろには東北の大地を訪れ、また春の彼岸ごろには北へ帰っていく。
 かつて白鳥を神として信仰し、命をかけて白鳥を守った人びとが東北にいた。そして同様の熱烈な白鳥信仰がシベリア、バイカル湖畔のブリヤート族と呼ばれる少数民族にも存在することを知ったとき、私は奇異の感に捉われたことを告白する。おそらく北方大陸の狩猟文化の波はわが縄文時代にも押し寄せていたにちがいない。その末端が東北地方であったのではあるまいか。
 これまで日本人の北への感覚は、鎖国時代はもちろんのこと、明治、大正、昭和の三代にも一度も開かれたことがなかった。国家の政策が日本国民に北方への感覚を閉ざし、したがって、「北への衝動」は封じられたままであった。もし彼我の交流が自由になったら、いままで抑圧されていた北への衝動が奔出することはまちがいない。かくして、私たちは国境という人為の画定線を超えた民族感覚の全方位にわたる開放を体験することが可能になろう。
 南への衝動も北への衝動も、日本人の意識のもっとも奥深い底によこたわる民族感覚の、渡り鳥のように正確な本能の働きかも知れないのである。

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